mao1938’s diary

徒然なるままに・・・(略)・・・あれこれ述べる。Twitterは@mao1938

『郷土教育運動小史』(桑原正雄)

たいまつ新書5『郷土教育運動小史』(1976)のメモ。

著者は郷土教育全国協議会の創設者。郷土教育とは「教育における中央集権的な権力思想を排除し、それぞれの地域に、土着の思想と行動にささえられた、民主主義教育の樹立をめざすものであり」p.10、郷土教育全国協議会は「父母と教師が対等の立場にたって、国家権力による教育統制を排除し、地域に民主教育体制をうちたてるために研究と運動をすすめている団体である」(裏表紙)。

著者は世田谷教組時代にレッドパージ、当時44歳で”女房と子ども四人の家族抱えて、これからどうやって食いつないでいくか”から”教育でメシを食う”に至ったと。それから山口県出身らしく(?)、自分たちの運動を高杉晋作の”割拠して闘う”や”貴族の没落、地方武士の興起”になぞらえるのも印象的。

以下、引用・メモ教育関係にはまったく疎いので読んでいて?ばかりであったが。

☆郷土教育は学習領域としての郷土を対象にするものではない。

「「郷土に即して」日本の現実をとらえる必要」「いわば地方分権的、人民的発想で”教育”をとらえ直そうとするもの」p.35

”個々の具体”とらえる(労働や所有への問題意識へつながる)大事さという文脈で、

「戦前の郷土教育は”郷土”を「学習の領域」と考えたから、自分の”村”や”町”も、府県単位の”郷土”も、「地域空間のひろがり」としてとらえた。そのように考えると、「自分の生活現実」は「地域空間のひろがり」に埋没してしまう。たとえば「わたしの村は貧乏だ」という。それも一つの社会認識ではあるが、科学的・階級的な認識ではない。ほんとうは貧乏な村ほど、貧富の差がはげしい」p.39-40

☆個人的には次に引用する当たりが印象的。

教師の指導性=組織する指導性とは”子どもの問題意識”を手段にするのではなく

「子どもたちがなぜそのようなことを問題として意識したか、その根底にある”認識”こそが問題なのです。その認識のちがいを学級集団の中ではっきりさせ、おたがいに学び合うことによって、認識の質をより高いものに変革していく」p.45-46

「これまで私たちの教育理論の基軸をなすものは、真の統一と団結をめざす「認識変革の教育」であり、それを実践し実現していく教育方法論としての「組織する指導性」でありました。具体的にいえば、「子どもたちが、なぜそのようなことを問題として意識したか、その根底にある”認識”のちがいを学級集団の中ではっきりさせ、お互いに学び合うことによって、認識の質をより高いものに変革していく」ということでした」p.58-59。

この”認識の質”とは事実認識ではなく、人それぞれが”階級的な立場や思想を反映する”価値判断の根底にある価値認識であるらしく、よって階級的、思想的教育であり、主体確立を重視する教育である(p.59-60)。そうした点で”文部省”のみならず”革新”系の”知識主義”も批判されている

「わたしたちは(イデオロギーの代わりに科学を、ではなく)「教育の論理」も、「イデオロギーに対してイデオロギーで闘う」ことだと考えます」p.204

☆教育合作運動・・・「日本における”文化大革命”」

「権力の末端機構にあぐらをかき、人民に背をむけている教師たちに、反省と自覚をうながす方法はただ一つ、PTAのワクをとっぱらってしまうことでした。子どもがあろうがあるまいが、そんなことは関係なく、地域住民のすべてが学校教育に対して発言し、はたらくものの要求をもちこめば、教師も労働者の側に立たざるをえなくなり、教師の中にひそんでいる権威主義(聖職者意識)もふっとんでしまうだろう」p.55

「学校教育は権力の支配をはなれて、直接地域住民の責任において運営」p.126べし。

そのとっかかりとして親と教師の対等きずくものとしての合作運動。この辺りと関係して”封建遺制をもとにした、きわめて地縁的な集団”など言及している。

☆土着の思想

秩父事件について「生活を防衛しようとする土着の思想(たぶんに保守的である)が、進歩的、革命的な民権思想と結びついたときの、人民大衆の爆発的なエネルギー」p.15-16云々。

「明治初期に小学校を焼打ちした農民は、学校教育を拒否することによって、生活を防衛しようとしたのですが、百年後の今日では、地域住民が学校教育に直接に参加することによって、みずからの生活を防衛しようとする」p.57

 

☆その他・感想

様々な領域(内容のみならず方法、中立は結果的に権力に加担)に”階級性”を浸透させる面や”農村から都市を包囲する”的(郷土を農村に限定はしていないが)実践面など特徴的か。読んでいて漠然と”統一のための対立”が重要なのだろうという印象を抱いた。(対米従属もでてきた。)本書の約3分の1(70ページくらい)を占める過去の著作からの抜粋集「文献から」は『毛沢東語録』を意識しているかもしれない。コミュニズム運動・理論の様々な面が背景にあるだろう。また高度経済成長期からの反公害闘争、住民運動に注目しており、60年安保の主戦場は国会周辺だったが70年安保の主戦場は日本全土に分散と表している(p.67-68)。教育労働者の運動と住民運動が不即不離であったこと、政党・労組エゴへの批判、”教育労働の特殊性”は”聖職者”にはならないこと、国鉄労働者の運動に言及しつつ教育労働者の労働者としてのたたかいはいかにあるべきかなどそれなりに学ぶことはあった。しかし著者が強調する”土着の思想と行動”、”村落共同体”への注目、中央集権性と対置されるのみの自治性、保守性(それのみでは”革命性”ないように読める)などには、資本の運動をとらえる契機が少ないのではないかと感じる。マルクス主義における地理的考察、日本資本主義における農業問題やさらぎ徳二が、宇野弘蔵の、”労働力商品化の無理論”が重要な位置を占める恐慌論ー蓄積論に対して、「直接的生産関係の蓄積の傾向的な絶対的な拡大が外部の諸部門や諸部分を分解させながら資本制生産の従属下に捉え、全社会的な生産関係を拡大再生産するものであるという基本的な視点」(『宇野経済学体系の批判』p.149)欠落を指摘したこと、「原理的」解明の対象となる独占資本における分断の構造との自覚的闘争の重要性(”反プロレタリア的底辺主義”批判へもつながる)を指摘していること(高須賀義博も)は参考に学んでいきたい。