mao1938’s diary

徒然なるままに・・・(略)・・・あれこれ述べる。Twitterは@mao1938

読書メモ

メモ・山崎カヲル「現代思想の中のクラウゼヴィッツ 生誕二百周年によせて」中央公論1982年6月特大号から。特集「八〇年代防衛論の前提を問う」にて。

 

主題はテキスト編集問題と解釈史の批判的検討で手短かにまとめられている。後者個人的に重要だと思った点メモ。

 

「『戦争論』の掲示したもっとも決定的な問題は、政治と戦争指導との関係、絶対戦争という概念、攻勢と防禦との非対称性の三点に絞り上げる」142pことができる。

☆政治と戦争指導
(1)関係の可逆性
ルーデンドルフによってはじめて打ち出された、と。彼の『戦争指導と政治』(1922)には”二重の歪曲”があり、①戦争と政治を「同一物の別表現」とみなし、さらに②この政治を「外交」へ切り縮める。

”共鳴者”が赤軍参謀本部の育ての親ボリス・シャポシュニコフに見いだされる。
「「戦争が別箇の手段をもってする政治の継続であるなら、平和も別の手段をもってする闘争の継続である」(『軍隊の頭脳』1929年)と述べることで、政治と軍事との境界線を曖昧にしたのである。シャポシュニコフは「政治的に無関心な」軍人の典型としてE・ヴォレンベルクが名前をあげており(『赤軍』島村・大木訳)、そしてそのためもあってスターリンの粛清を免れたのであるが、政治への無関心が政治への侵犯をなす代表例のひとつであろう」142p

(2)ナチ崩壊以後”好戦主義者”や”時代遅れ”ぐらいのとびつく(1)と違って「職業軍人の支配的見解として流通し続けている」143pのが「クラウゼヴィッツが戦術のレベルでしか認めようとしなかった「純粋に軍事的」な判断を戦略にまで推し拡げ、戦略は軍人の専管事項であるとみなす風潮」143p

☆絶対戦争について

☆攻撃と防禦の関係

攻勢第一主義はやはりモルトケ影響大きい。

多くの戦略思想は戦争両当事者が攻勢をとることで成立する「両極性」(ゼロサムゲーム)に基礎を置くがクラウゼヴィッツの攻勢と防御区別は「両極性の世界のものではな」p145く、両者の非対称性が「「極限への上昇」を妨げる」p145。防禦それ自体の強力性プラス「外部における改善の可能性」p145。

 

 

以下メモして思ったこと。

クラウゼヴィッツの政治は『『戦争論』入門』(清水多吉)では近代の"普遍性をもった政治"、『プロレタリア兵学教程』(坂本聡三・渡辺正之)では"内外の全般的情勢に対する洞察"強調だった。前2著が排除していたわけではないが(一般的に政治の一つの表現としての外交に関しては言及していたと思う、また両著の"クラウゼヴィッツの歪曲史"に位置づけるふうな記述と関係しているかもしれない)、ルーデンドルフの"歪曲"、"転倒""可逆性"に加えての政治を外交に切り縮めたとの指摘は私にはなるほどなあとわかりやすかった。ちなみに清水本では政治と戦争について、クラウゼヴィッツ歪曲の流れー「現実」と密着したーはナチスに至るドイツ系とともに、ソ連トハチェフスキー事件が参照されるのが印象的。それぞれの著者に独自の"近代"観あり(とくに書かれた時代状況を『教程』は反映していると言えるかも)、クラウゼヴィッツと離れた具体的な状況を説明するときにそれが現れやすいのではと感じることありそこは整理したい。